お盆の青森旅行の続きです。
一泊した奥入瀬渓流ホテルからレンタカーで1時間ほど走り、八甲田山のロープウェー駅へ移動。
八甲田山と言えば、明治時代の冬山登山史上最悪の遭難事件。
高倉健主演で映画にもなった事件です。
ボクはまだ小学生だったと思いますが、高倉健ファンの母親に映画に連れて行ってもらった
記憶があります。
全く知らないわけではなかったのですが、八甲田の資料館やWikipediaなどで調べると
あらためてすごい事件だったのですね。
事件のあらましを書くと、ロシアの南下政策でもはや開戦が避けられなくなってきた明治35年。
寒冷地での軍事行動を調査するために、陸軍の青森連隊と弘前連隊が八甲田山の雪中行軍を計画。
二つの連隊が八甲田山中で落ち合う計画だったのですが、青森連隊が猛吹雪に行く手を阻まれ
遭難。結果的に青森連隊の総員210名中199名が命を落とすという事件でした。
出発前は、雪中行軍といっても難所は5里程度であり、温泉入るのに手ぬぐいも持っていかねば、なんて
いう軽口もきかれたそうです。
気象状態が平年並みなら問題はなかったでしょうが、折悪しく、青森気象台はじまって以来の大寒気団が
東北、北海道を覆いつつあり、青森連隊出発のその日に、旭川では日本の最低気温記録(-50度)が
観測されたのです。
出発してすぐに猛吹雪に行く手を阻まれ、道を見失い、飢え(食糧はあるが凍りついて食べれない)と
寒さに凍死者が出始めます。
翌日には部隊は組織行動がとれなくなり、寒さのあまり発狂して裸になって川に飛び込む者、
立ったまま仮死状態で救出にまわった弘前連隊に発見される者もあらわれ、阿鼻叫喚の地獄絵と
化してしまいます。
ボクがこういった事件があると、何が生死をわけたのか?に一番関心がわきます。
生き残った者たちはほとんどが将校(防寒衣が兵卒より恵まれている)と青森の山間部出身の兵士
でした。宮城や山形出身者達はほとんど生き残りませんでした。
生き残った兵士たちは、凍傷防止のため、毛糸の靴下を一枚多く履いていたとか、断熱効果を
あげるために下着とシャツの間に新聞紙を入れていたとか、寒冷地を生き抜くための知恵をもっていました。
新聞紙、靴下が生死の境目だったのかもしれませんね。
また、青森連隊はほとんど全滅したにも関わらず、行軍に参加した弘前連隊は全員無事に帰隊しています。
寒さ、知恵のほかに組織体制が大きく影響したのだと思います。
ちょっと前置きが長くなりました。
八甲田へ行った日は天気もよく、そんな事件があったなんて信じられないほど綺麗な風景でした。
↓ 頂上駅付近の湿地
↓ 森林を見て気づくのですが、ほとんどのトドマツは幹が中途で折れたり、枝が特定の方向にしか
ついていません。冬季の風雪の強さを物語っているのでしょう。
それにしても真中に写っている電波塔みたいなのは何?