はっきり言って、
小説としてはおもしろくありませんでした。清張の小説は、読者を離さない強力な吸引力があり、普通の文庫本程度のボリュームだったら1日で読んでしまえるのに、これは3日かかりました。
史実を土台としていて、あまりにもそれに忠実であるため、躍動感がないんだよな。それにぼくの苦手なカナ文書がちりばめられているのも痛かった。
ただ、観点を変え、歴史文学として見るといくつか興味深いところがあります。
明治初期の陸軍卿(陸軍大臣)、内務卿(内務大臣)を歴任した
山県有朋がよちよち歩きをはじめた明治政府を軍・警察の観点から強化するために悪戦苦闘する物語です。
明治を舞台とした有名な小説として司馬遼太郎の「坂の上の雲」があります。
これは日本の内政の基盤ができ、山県らの軍制改革が一応の完成をみた後の話であり、「象徴の設計」は「坂の上の雲」の前段にあたるものと考えてもいいと思います。
「興味深い」と書いたのは、「坂の上の雲」の印象が強すぎ、日本はなんの問題もなく、江戸時代から近代国家への変身をやりおえていた、というぼくの印象が間違っていたことがわかったことです。
当時の日本の混乱は、現在に例えて言うと、アフリカ諸国やイスラム圏の事情にとてもよく似ています。
幕府をうまく倒したまではよかったものの、中央政府の力は弱く、有力者は政府よりも、地方の殿様に忠誠を誓っているような状況で、近代国家としてのまとまりはありませんでした。
以前、中曽根首相が「日本は単一民族で構成されているから、経済発展がうまくいった」と語り物議をかもしたことがありました。この言葉が間違っていることがこの本を読んでわかりました。
民族的(クマソ、アイヌetc...)にも間違っているし、歴史的にも間違っています。
単一民族だからまとまっていたのではなく、まとまりのない幕藩体制を人為的に「設計」しなおしたからこそ、日本人が長州人や土佐人でなく、日本人である意識を持つようになったことを意識したほうがよいのでしょう。
有朋は明治10年に西南の役を鎮圧し、ほっとしたのもつかの間、各地での一揆、軍の反乱に手を焼きます。
特に近衛砲兵隊の反乱はショックでした。
反乱の理由が「西南の役に活躍したものの俸給のアップがない」ということでした。優秀な近衛兵ですら、「俸給を仲介とした主君への忠誠」という主従関係を引きずっていることを意味し、有朋は軍の近代化・意識改革に着手しはじめます。
有朋は経済政策と軍事政策の2方面作戦を展開していきます。
当時の一揆・反乱の思想的根拠となっていたのは、板垣退助らの自由民権思想でした。農民から徴兵していたわけですから、農民経由で軍に自由民権思想が入り込むのを非常に恐れていました。
インフレで一時的に豊かになっていた農民は自由民権運動に資金を提供していました。
有朋と伊藤博文は徐々にデフレにもっていき、農民の資金を枯渇させ、自由民権運動の先細りを狙います。
軍制改革において軍備拡張とともには、軍人勅諭と呼ばれる、軍人向けの”憲法”を策定します。
ここでは軍人に、国家への絶対的な忠誠を誓わせようとしますが、その根源をどこにおくかで大いに悩みます。
西周らと協議をすすめていくうちに、天皇を神にちかい存在におくことで、”憲法”のバックボーンを固めようとします。
第二次世界大戦で日本は「天皇の軍隊」が戦ったことは、だれでも知っていますが、いつからそうなったかというとまさに、有朋、西周らが軍人勅諭草案を作成した明治初期でした。このときのまでの一般的な日本人にとって、天皇は影の薄い存在でした。
影の薄い存在を、国権の中心とすることによって、近代国家としてまとめてゆくのが有朋らの作戦でした。
この小説は有朋が上記のような国家体制の青写真を描き、実行するまでの過程を記述したものです。
これはうまくいき、「坂の上の雲」にある日露戦争で大勝利を得、一応の完成をみます。
その後、有朋の青写真は修正されず、拡大解釈され続け、第二次世界大戦という破局を迎えたのはご存知のとおりです。
有朋らの活動というのは、当時の列強に囲まれ、いちはやく近代化をすすめなければならないという状況では最善の手だったのでしょう。
しかしそれがいつの時代にも通じるとは限りません。
同じように第二次大戦後、焼け野原になった日本では、ひたすら皆が同じ方向を向き、生産を拡大することが正しい一手だったのかもしれません。
しかし時代はかわります。同じ手札が通じなくなったのがバブル崩壊だったのだと思います。この10年間で日本は太平洋戦争以上の国富を失いました。
日本人は危機に直面すると一致団結し、最善の方法を導き出す能力をもっているが、それ以後、成功に盲従してしまい、時代の遅れをとってしまう傾向にあるのではないかと思いました。