横須賀は2度ほど撮影に行ったことがあるのですが、その後に読んだ、
山口瞳の自伝小説「血族」の舞台がまだ訪問したことのない横須賀・柏木田なこともあり、
三度目の訪問をすることにしました。
柏木田遊郭跡は横須賀の内陸・山側にあり、一番の近道は横須賀中央駅からバスで
不入斗(”いりやまず”と読むそうです)橋バス停で降りるのが一番早いのですが、
今回は当時の港からのルートだったと思われる京急線の県立大学駅(旧名:安浦)から、
テクテク上り坂を歩いてみることにしました。約20分の予定でした。
ところが、目印としていた歩道橋を見誤ってしまい、熱中百度の中、一時間以上にわたって
山間の住宅街をさまようハメになってしまい、自販機のペットボトルがなかったら
ぶったおれていたところだったと思います。
↓ 変わった洋食屋さん。
↓ なんでここに来ちゃったんだろう???
↓ 三崎街道沿いにあった色っぽい建物
さんざんさまよった末、歩道橋が二つあることがわかり、やっと正確な位置を把握することが
できました。
「血族」の中に作者が、母親の育った藤松楼のある柏田遊郭跡にたどり着く感動的なシーンが
あります。
主要幹線道路である三崎街道からは全く見えないが、三崎街道を渡る歩道橋の上に
立った時、作者の前に悠然と柏木田遊郭が現れるのです。
↓ 山口瞳が見たと思われる歩道橋からの景色。
手前側が三崎街道。奥へ延びる自動車一台がやっと通れる道を行くと柏木田遊郭跡に
つながります。
↓ 柏木田遊郭跡の大通り。
まるで滑走路...セスナ機なら着陸できそうです。
↓ この道の両側に17軒の2階建ての妓楼が軒を連ねていました。
もともとこの土地は山中の荒れ地でした。
横須賀の遊郭は今の横須賀中央駅の繁華街にあり、それが明治20年の大火で全焼し、
横須賀刑務所の受刑者に開墾させたこの地に移ってきたのでした。
移転当初は繁栄したものの、関東大震災、海岸沿いの新興カフェー街(安浦、皆ケ作など)の勃興
により、衰退の道をたどり、戦後は赤線として細々と生き残りました。
「血族」によると、山口瞳が訪れた昭和50年代には、連れ込み宿、風俗店が残っていた
ようですが、今はどこにでもあるごく普通の住宅街です。
ただひとつ違うのは無駄に広い大通りがあるというだけです。
↓ ビジネスホテルの「福助ホテル」。今は営業していません。
戦後発刊された「横須賀警察署史」に柏木田カフェー街分布図が掲載されており、
そこに「福助」という名前があります。
↓ 福助の裏の建物。典型的なカフェー建築です。
この建物の向かいのお宅では庭にプールを出して女の子と父親が水浴びをしてました。
怪しまれそうなので、そそくさと撮影してすぐその場を離れました(汗)
↓ 藤松楼の跡地にはバイク店とマンションが建っていました。
↓ 三崎街道から柏木田遊郭跡ののぞむ。
街道からの視界を妨げる建物が撤去され駐車場に変わったため、現在では街道から見ることが
できます。
以前から不思議だったのは、なぜ柏木田が衰退したか?です。
当時、横須賀の政府公認遊郭は柏木田のみで、信用も格式も他の町とは段違いだったはずです。
「血族」によると、地元の人の言い伝えとして遊女の呪いが紹介されていました。
柏木田は遊女に対して過酷な扱いをすることで有名で、
食事は”台のもの(客が注文した食事)”の残りしか食べさせない、
病気になると医者にも見せず、地下の座敷牢で死ぬまで放置したりしたそうです。
その呪いのためほとんどの遊郭関係者の血筋は途絶えてしまい、「血族」も血の断絶をモチーフにした
私小説となっています。
いろいろ原因はあるにせよ、実際にテクテク歩いて実感したのは立地があまりにも悪いせいだと思います。
当時の顧客は海軍軍人、商船員、港湾労働者が主体でしょうから、彼らは港からテクテク坂道を
登って登楼したわけです。
真夏に20分もあるいたら、頭がぼーっとなってスケベ心も消えてしまいます。
港に近い安浦、皆ケ作の勃興に反比例するように衰微していったのはそんな理由があるからでは
ないでしょうか